月篠あおい Side














いいのかな。
大好きな人を独り占め。











『ひとりじめ』
(「西浦中学校物語」Afterwards)
(2007年12月11日阿部お誕生日記念SS)






雨が微かに降る、週末の夕方だった。
梅雨と呼ぶにはまだ些か早い5月の終わりの雨で、
混じり始めた湿気だけが初夏の終わりを感じさせていた。




週に1度の恒例となっていたオレ、三橋と担任だった阿部くんとの勉強会。
週末の時間のある時や平日の夜でも、
忙しい合間を縫って阿部くんはオレとの時間を作ろうとしてくれている。
その甲斐もあり入った高校でもなんとか授業についていくことができていた。
阿部くんは新しく1年生の担任になったと聞いたのはいつだったか。
「学年主任になってな、入学式で保護者に挨拶したぞ」と笑顔で話をする。
きっと今のクラスでも怖がられながらも慕われているのだろう。
大きなコンパスを鳴らして廊下を歩いていた阿部くんを思い出す。
もう自分の、あの頃の自分達だけの阿部くんではないのだと
分かってはいるのだけれど、寂しさはちくちくと胸を刺す。
過ぎてしまった時間は思い出という枠に入れられて、とてもキレイな色をしていた。




阿部くんの家の、リビングで。
小さめの足の低いテーブルを挟んで、オレと阿部くんは座っている。
目の前の阿部くんは何だがすごく疲れているようだった。
見た目にもふらふらで今にも倒れるんじゃないかと心配になる。
6月頭に研究発表がどうとかであんまり寝てないと言っていたので、
今日の勉強会をなしにしようと持ちかけたのだが、
即座に却下されてしまった。
中間考査の数学の成績があまりよくなかったからだ。
7月にある期末までに数学をどうにかしたいらしい。
頑張らなきゃ、といつも思うのだけど。
「ちょっと待て、三橋、問5。そのもって行き方はおかしいだろ」
「あ……あう?」
図形が頭の中で分かんなくなってて、わたわたとうろたえてしまう。
数学は高校に入学して更に難しくなった。
数Aがかなり苦手でいつも頭を抱えている。
「簡単に分かんないって、首振んなよ。粘れよ」
「……首振る生徒、は……キライ?」
「お前のことは好きだよ」
恐る恐る投げかけた問いにあっさりと返って来た答え。
顔が火照ってしょうがない。
視線は泳いでしまい、定まるようで定まらない。
本棚の上に先週まではなかったものを見つけて、やっとそれを凝視した。




「……あ、阿部くん」
「ん?」
「親衛隊の、旗だ」
飾ってあるのは「阿部っち親衛隊」の旗だった。
30センチ四方ほどの小さめなその旗はしっかりした布に凝った刺繍がしてあり、
家庭科の先生であるハマちゃんが泉君に頼まれて作ったものだった。
「ああ、学校から持って帰ってきた。ずっと飾ってたけどな、もういいだろ」
「うん」
ずっと。
そう、ずっと。
体育大会で使った広用紙大の黒い色画用紙で作られた「阿部組」団旗と共に、
自分達が卒業するまで教室に飾られていた親衛隊の旗。
卒業後に親衛隊の解散式があり、隊長であるオレが最後に阿部くんにこの旗を返して、
4月からは職員室の机に置いてもらっていたようだった。
「解散式の時の、あれは……?」
そこで阿部くんは、オレの問いかけに苦い顔をした。
指している物が、解散式の時に渡したプレゼントのことだと気が付いたらしい。
「……学校に置いとけと言われてもらったから、……ちゃんと机に、置いてある」
「うおっ、あ、ありがと」
「しかし……一度訊きたかったんだが、あれは誰のセンスなんだ」
答えられなくて、黙って首を傾げた。
「隊長だったお前が決めた訳じゃないのか」
「み、みんなで、決めた、よ!」
それは嘘ではなかったけれど、全部が本当でもなかった。
解散式で渡したプレゼントは、「卒業式で阿部っちが泣くか、泣かないか」という
賭けに買った隊員だけが話し合って決めることができたのだ。
だから阿部くんに渡したプレゼントを誰が選んだのかは分からない。




オレは、阿部くんが泣くほうにはりんごを賭けなかった。




田島先生が何百ものりんごを「阿部くんが泣く」に賭けたこともあって、
圧倒的に「泣く」方のエントリーが増えていて、
「泣かない」方の隊員は最初あまり盛り上がらないでいた。
りんごを使う賭けは親衛隊にとっては最後のお祭りでもあった。
だからオレと泉君、そして水谷先生が「泣かない」に賭けて、盛り返していた。
「阿部っちの涙腺とコンパスの鳴らし方と今日のご機嫌について」などという、
おバカなテーマたちで阿部っち日記が卒業前に大盛況だったことを覚えている。
「さまよえる三角定規」と名のついた「阿部っち日記」と呼ばれた掲示板は、
当時の阿部くんに見つからなくてよかったなとオレは思う。
今はその楽しい場も無くなってしまったのだけど。









小さな欠伸をかみ殺しつつ、阿部くんは掌で顔を覆っている。
先程淹れ直した熱いコーヒーの効果も出ていないようだった。
「あ、阿部、くん!!」
「……何だ?どっか分かんないトコあんのか?」
「オレ、ワーク、1人でも頑張れるから!少しでも、寝てください!」
阿部くんはしばし呆気に取られた顔をして、その後盛大に噴き出した。
笑いが止まらないその様子を見て、オレは真っ赤になって俯いた。
頬に阿部くんの手が伸びてきて、その掌で優しく撫でられる。
心臓の鼓動はどきどきと音をたて、阿部くんに聞こえてしまいそうだ。
「可愛いな、ほーんと。食っちまいてェ」
「食べたって、オレは美味しくない、よ!」
顔は上げず唇を尖らせてそう言ったら、何故か倍笑われてしまった。
オレは何か変なことを言ったのだろうか。
更に脹れて唸っていたら、阿部くんはオレの目の前に手を出して、
そして小さな小さな声で言った。
「ソファまで……つれてってくれ」
オレは激しさを増したどきどきを抱えながら、阿部くんの手をとった。
手は繋いだまま立ち上がる。
阿部くんの傍まで移動して「立って、よ」と声を掛けた。
座り込んで動く気配がないのを見て、息をつく。
「阿部、くん」
オレの手の甲に阿部くんは額を擦り付けている。
もしかして、甘えてくれているのかな?
そう気付いたら、うれしさがじわりと体中に染み透るようだった。
「……こんなトコで、眠っちゃ、ダメだよ」
阿部くんは黙ったまま、顔を上げてオレを見る。
漆黒の瞳がオレを見上げていて、オレも見つめ返した。
吸い込まれてしまいそうだ、と思った。
心臓はまだどきどきしていて、それは阿部くんが好きな証拠のようでもあった。
「ソファ、行こ」
手を引くと、すんなりと阿部くんが今度は立ち上がった。
ずっと繋いだままの手。
温かさを感じつつ、たった数メートルの距離を2人で移動する。
10畳ほどのリビングの隅に大きいソファがあって、
阿部くんはそこに寝っ転がってのんびりするのが好きみたいだ。
ソファベッドになっているらしく、泊まりに来る時は使っていいと言われている。
阿部くんは1人暮らしで、泊まりに来ることも先ではあるかもしれないと思うと
「お泊まり」というその響きに、どきどき感は増すばかりである。




ソファにすとんと腰を下ろして、阿部くんは言った。
「後でメシ、食ってけよ。ビーフシチュー作ったんだ」
「うん」
「ワーク、次のトコの問3はひっかけ問題ぽいから注意しろ、それとな、」
「オレ!頑張るから!ちゃんと寝てよ!」
オレのその物言いに「分かった分かった」と言ってまた笑う。
クッションを枕代わりにして横になった阿部くんに、
ソファの横に置いてあったブランケットを掛けてあげた。
笑顔のままで瞼がゆっくりと閉じられていく。
眠りに落ちていく愛しい人のその様子を、オレは黙って暫し見つめていた。
触れてしまいたいと思うその気持ちを辛うじて振り切って、オレはその場を離れた。









静かな、静かな時間だった。
雨の音もいつしかしなくなっていた。
30分ほどはちゃんと数学ワークと格闘していたのだが、
やはり独りきりは寂しくなって、ふらふらと阿部くんのいるソファに近付いていった。
傍の床にぺたりと膝をつけて座り込んで、眠っている阿部くんの顔を覗きこむ。
思ったより可愛い寝顔に笑みが漏れる。
学校での阿部くんは、それはそれは怖かった。
わざと出された野太い声で怒られると震えてしまっていた。
阿部くんと言えば、いつも使うわけでもないのに
始終持ち歩いていた授業用の大きい道具たちの印象が強い。
あの無駄に音を立てていた、何故かピンクのチョークが定番のコンパスや、
授業で振り回されていてたまに何処かに飛んでいっては
「こんな凶器阿部っちに渡せるか」と教室内をさまよっていた三角定規、
使われる気配がないまま、教壇上に鎮座していた分度器などを思い出す。
もう2度とそれらは見られないのかなと思うと寂しさが増してきた。




寂しいと、そう思うことは我儘だとは思う。
阿部くんはとても人気があって、
卒業生が未だ何人も西浦を、阿部くんの元を訪れているそうだ。
携帯メールは苦手らしく、メルアドを交換している生徒はオレ以外にはいなくて
それだけはちょっと安心できていた。
親衛隊は9組限定で構成されていたが、実際全校で募集をかけたら
とんでもない人数になるだろうことは当時から予想されていた。
醸し出している雰囲気も声も言葉も更に笑顔も怖かったけれど、
妙に律儀なところがあって、おまけに涙もろかった。
その辺のギャップが人気だったのかもしれない。
約束も時間もきっちり守る。
授業はもちろん分かりやすいし、クラスをまとめるのも上手かった。
クリスマスプレゼントもバレンタインデーのチョコもたくさんもらっていたらしい。
お返しを一切してなかったが、「またそこがいい」と女子の噂になっていた。
そのくらい人気者の阿部くんを、オレは今、ここで独り占めしている。




いいのかな。
阿部くんを、独り占め。




申し訳なくて。
オレなんかが阿部くんを独り占めしてるのが申し訳なくて、泣けてくる。
ほんとはもっと阿部くんにふさわしい人が
世界の何処かにちゃんと居るんじゃないかと思う。
優しい美人な女の人と恋愛して結婚して幸せになっていいんじゃないかと思うのだ。
傍に居るのが、オレでごめんね。
そんなことを考えつつ、黙って涙を流していたら、阿部くんが目を覚ました。
「何でお前は泣いてんだ」
怒気を含むような声色に怯えて、首だけをぶんぶんと振ったがそれ以上は動けない。
「阿部、くんが、好きだから」
口から出た言葉に自分で驚いたけれど、あながち嘘でもない。
阿部くんがこんなに好きでなければ、泣くことなんかないのだ。
好きだからこそこんな風に悩んでしまうのだ。
勝手に自己完結してしまうのは、それこそ阿部くんの気持ちを置いてきぼりにしていて、
よくないことだって分かってはいるけれど。
「好きだから……」
更に言って、それ以上は続けられなくて、でも気持ちを渡したくてそっと口付けをした。
阿部くんの腕は伸びて、オレの背中を優しく抱いてくれた。
もう少し自分に自信があったなら、世界に対して胸を張っていられるのにと思う。
今はまだまだだけど、精一杯の努力をして、そう遠くないいつかの日に、
阿部くんを好きな自分の気持ちのすべてを肯定できたらいいなと思った。











もっともっと、ずっと。
阿部くんを、独り占めしたいよ。




好きだから。
こんなにも、好きなのだから。











阿部、お誕生日おめでとう!
マジで大好きです!!



体育大会の「阿部組」団旗についてはそのうちどこかで(笑)
たぶんハナタジ関連で書く予定です。
親衛隊解散式自体については書くつもりはなく、
阿部っちへのプレゼントに関して書くのは最終話になると思います。



「西浦中学校物語」その後のお話です。
番外編扱いとなります。





2007/12/11 UP





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