階(きざはし)












世界を覆う空に春の兆しを感じ始めていた。
流れる風の群れは芽吹いた木々を揺らし、やがて花を連れてくるだろう。
星が見えない都会のビルの陰で、輪郭を微かに朧にした半月だけが浮いていた。


純白のウエディングドレスとヴェールを纏った花嫁が、
眩い光に囲まれた都内のホテルにあるシェル型のチャペル、
そのガラスのバージンロードを歩いている。
スレンダーラインのドレスと同じ色の長いグローブをはめていて、
細い手のその指を花嫁であるまもり自身の父親ではなく、
嘗ての同級生であった武蔵の手に委ねている。


ヒル魔はタキシードを着ていて、祭壇の前で彼女が近づくのをただ待っていた。


鳴り響くオルガン演奏が聞こえないくらいに、同じ時代にアメフトに係わっていた、
今も尚係わっている仲間たちの歓声や祝福の声がチャペル内に響く。
出逢いがあったあの高校時代から、もう何年も何年も経ってしまっていた。
主役の2人は既に一緒に住んでいて、籍も最近突然に入れていた。
それに加え、アメリカで互いの両親との挨拶なども済ませたと聞いた仲間たちの、
謀りごとの結果として今日の日があった。
神の存在を信じてはいないはずのヒル魔が、
例え真似事とはいえ結婚式の場にいるのに驚いた者も多いだろう。


武蔵の手を離れ、ヒル魔の傍へとまもりが更に近付く。
本人の好みだったのかヴェールはマリアヴェールで、
覆われた顔の表情は間近に来て初めて笑顔だと分かった。
ヒル魔は彼特有のいつもの笑みを見せながら彼女の手を取り、そして言った。
「ここまでだ」


その瞬間に、チャペル内のすべての明かりは消えた。










ヒル魔はまもりと手を繋いだままで、エレベーターホールまで駆ける。
エレベーターに乗り込み適当な階のボタンを押すと、
微かな浮遊感の後、エレベーターは静かに上がっていった。
ドレスで駆け続けたせいだろうか、彼女は肩を上下に揺らし大きく息をしていた。
ヴェールははずされ、片腕で抱え込んでいる。
ブーケは明かりが消えた瞬間に、メイドオブオナー(花嫁の介添え役)として
傍にいた鈴音に向かってまもりが投げている。
指輪を渡すはずのベストマンとしてヒル魔の近くにいたセナの、
らしくない余裕のある笑みがヒル魔には気にかかっていた。
「テメー、式の前に糞チビからなんか受け取っていただろ、何だったんだ」
「…っ」
整わない息に上手く言葉が出ないようだったが、まもりはそれでも頷いて手を離し、
胸元から一枚のカードを取り出した。
一瞥しただけでそれがルームカードキーなのは分かった。
「何階だ?」
「3401……ってセナは言ってたと思う」
ヒル魔は舌打ちの音を響かせ、エレベーターの階表示をすばやく修正する。
こうなればもう敷かれたレールに乗ってしまうしかないだろう。
「ねえヒル魔くん」
「なんだ」
「抜け出して良かったのかな。皆お祝いにわざわざ駆けつけてくれたのに」
「ケケケ、テメー何か勘違いしてねぇか?」
「え?」
「まさか俺たちの結婚式のためにあの人数集まってると思ってんじゃねえだろうな」
「……違うの?」
「俺たちはダシにされてるだけだ。『君たちの結婚のお祝いを口実にしてパーティをやるだけだから、
いつでも逃げ出していいよ』だと」
「そ、それ、誰が」
「糞癖毛が満面に笑みを浮かべて言いやがった」


最初に言い出したのは誰だったのか。
高見を中心に何やら策略を巡らしているという情報をヒル魔は掴んではいたが、
なかなかその全貌は明らかにはならなかった。
明らかになった時には先手を打たれ大和の笑顔がヒル魔の目の前にあり、
『逃げ出していいよ』と言われると余計に逃げることができなくなった。
高校時代からアメフトで繋がって、さすがに付き合いが長い連中だ。
向こうの手の内もあらかた読める代わりに、こちらの動きも逐一封じられていく。
クリスマスボウルへの夢を追って、
3人だけでアメフトを始めた中学時代を今でもヒル魔は時折思い出す。
これまでの時間にたくさんの仲間と出逢い、共に歩んで今の自分があるのだろう。


「……ありがとう、ヒル魔くん」
まもりはヒル魔にそっと身体を寄せてそう言った。
「式が始まる前には逃げないでくれて、うれしかった。
ちゃんと最後まで式は挙げることはできなかったけれど、そんなものは最初から覚悟の上だし、
ドレス姿だけでも皆に見てもらえて良かった。
あなたが皆の思いをそう無碍にはできないんだって私には分かるから、だから、ありがとう」
ヒル魔は言葉を何も返せなかった。
何故だろう、まもりには昔から、自分が隠している多くのものを見通されているような気がしている。
「彼女のお前の扱いは達人だからな」と武蔵は言うが、その台詞を否定できない自分がいる。
エレベーターが微かな機械音を立ててその動きを止め、扉が開いた。
そこはスイートルームが並ぶ階のひとつだった。
「行くぞ」
「うん」
ヒル魔は再度まもりの手を取り、エレベーターを出て足早に歩を進めた。











カードキーを差し込み、扉を開くと噎せ返るような花の香りがした。
2人を迎えたのは、窓からの視界に広がる見事な都会の夜景と、
広い部屋を埋め尽くすように置かれているたくさんの花束だった。
花束のひとつひとつにカードが添えられており、
きっと「結婚おめでとう」のメッセージがそれぞれに綴られているのだろう。
部屋に入ってすぐそのひとつを手に取り、顔を伏せたまもりの目が潤んでいるのをヒル魔は見逃さなかった。
「……まだ、戻ることだってできるんじゃねぇのか」
感情を抑えた低い声でヒル魔はそう告げた。
まもりは顔を上げる。
「ヒル魔くんは?」
「今さら俺が戻れっか。テメー1人で戻ってもいいんだぞって話だ今のは」
「ここにいるわ」
「……」
「あなたの傍にいるわ」
「……テメーはな」
続く言葉を喉の奥で失ってしまったヒル魔は、
タキシードのポケットチーフの奥から愛用の無糖ガムを取り出して口に放り込み、
部屋の奥へと花束やアレンジメントの海をかき分けて進んだ。
キングサイズのベッドの側には2人分の着替えも用意してある。
ジャケットを脱ごうとしたヒル魔に、まもりが慌てて声を掛けてきた。
「ちょ、ちょっと待って!」
近付いてくるまもりを一瞥してヒル魔は言う。
「俺にも皆のところに戻れ、とか言いやがるんじゃねえだろうな」
「そんなことは言わない」
抱えていたヴェールを被り、まもりは細い両の腕をヒル魔に向かって伸ばしてきた。
その腕は首の後ろにまわる。


仄かに温かく、柔らかい唇の感触だった。
まもりの唇はヒル魔の持つ同じそれに合わさり、やがて離れる。
「誓いのキスよ。どこまでもついていくわ」
ヒル魔はまもりの一途な眼差しにたまらなくなって、まもりの身体を抱き締めた。
「天国なんかには絶対に行けねぇぞ、それでもいいのか」
「何度も言わせないで。私はあなたの、傍にいるの」
そう言われてしまうとヒル魔は笑う事しかできなくなってしまう。


人生を階(きざはし)に例える人間はたまにいて、高みを目指して、
空のとおくにあるはずの天を目指して人生の階段を上っていくと表現している。
何故誰も彼も上らなければならないのだろうかとヒル魔は思う。
自分の領域に神は要らず、生涯求めることもないだろう。
だとしたら天を目指す必要もなく、
「どこまでもついていく」とほざいた女の手を取って自らの進みたい方へ向かえばいい。





お前と手を取り合って
人生の階を駆け下りていく


天国には背を向けて





ヒル魔はまもりの背を抱いたままでベッドに押し倒した。
「あ、あの、ちょっと、ヒル魔くんっ」
「お前ももう『蛭魔』なんだぞ。いい加減その呼び名どうにかしろ、糞奥さん」
「何よもう…っ」
まもりの両親の希望もあって早めに籍を入れたが、
それによって2人の関係の何が変わったかは分からない。
青い双眸を見つめつつ、ヒル魔は更に笑みを見せた。
「その衣装、2度目だな」
「え?……ウェディングドレスが?」
「覚えてねぇのか」
思い返すのはいつも、デビルバッツを創世し仲間たちと出逢っていったあの頃。
「体育祭の時着てたじゃねぇか」
「……あ、着ぐるみリレーの!そうだった、思い出したわ。私だけ着ぐるみじゃなくて、
それはどうしてだろうって思ってたんだけど。あなたはうさぎさんだったわね」
「そうだったっけなァ」
「ああ、高校時代かあ、いろいろと楽しかったなあ」
まもりはヒル魔の視線を外し、
回した腕さえもあっさりと外してドレスのままベッドの奥ににころりと転がっていった。
ヒル魔は小さな溜息をついて起き上がり、またすぐベッドの端に腰を下ろした。
通り過ぎた人生は思い出という記憶の箱に仕舞われている。
高校時代もまたしかり。
すべてが過去になっていく。
アメフトを通じた繋がりが現在にも活きているのは実感できるが、
それでももうクリスマスボウルを夢見ていたあの時代は過去になり、思い出として日々美化されていく。
「ねえ」
背中に、伸ばされた指先の滑る感触。
何かに逡巡している様子が窺えるが敢えて無視した。
「……大好きよ、妖一くん」
消え入りそうなくらいの小さな声にヒル魔はやはり笑う事しか、できない。


「ベッドの感触が気持ちいい……このまま眠れそう」
シーツに顔を埋めてくすくす笑い出すまもりに驚き、振り返る。
「寝んなテメー!らしくもねぇ。ドレスがよれよれになってもいいのか」
「何だかとっても幸せだなあって思うの。花の香りに包まれて、横にはあなたがいて」
「ケケケ、ソウデスカ、ソレハヨカッタデスネ」
ヒル魔はジャケットを脱ぎながら、半ば自棄になって抑揚を抑えた言葉をまもりに投げつけた。
花の香りが神経を刺すが、今日だけはしょうがないなと諦めつつ、ヒル魔は黒い蝶ネクタイを外す。
あと5分だけ、叩き起こすのは待ってやろう。





人生の階を駆け下りて
やがて天国からは遠く離れ
闇の中へ堕ちていくだろう

それでも幸せだというのなら



この惚れた女をどこまでも

どこまでも俺は連れて行くのだ








END










「あねこん★サプライズ」企画参加作品です。
ウエディング姉崎をテーマに書きました。
今回再録です。





2008/11/24 UP



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