溺れかけているのは
わたしだけなのだろうか










溺れかけた金魚












楽しかった王城の学園祭も終わり、王城戦に向けての秘策として
復活したどぶろく先生が泥門の皆に差し出したのはマスクだった。
通気性最悪の濡れマスクでのマスクトレーニング。
わたし、姉崎まもりは替えの分を含め人数分のマスクの確保に走り回った。
授業中もお風呂の時も寝る時も、はずさずにトレーニングを続ける。
決戦までの時間は余りにも少なく、
それでもできることを精一杯にこなしていくしか勝利への道はなかった。





練習も終わり、冬の陽はとうに落ちて夜闇に星を隠すようにして、
黒々とした雲が大挙して空を一面覆っていく。
星もまあるい満月もまだ空に在った。
今はまだ。
だがすぐに雲に隠されていくだろう。
たぶん明日は雨になる。





ばたばたとロッカールームを片付けているわたしをヒル魔くんが待っている。
待っているとは決して言わないけど、先に帰ろうとはしないのだ。
ベンチに座ってノートパソコンのキーボードを叩く、その音だけが響いている。
音は心地良く鼓膜に響いている。
マスクの下方に指で隙間を作ってヒル魔くんは無糖のガムを放り込んでいた。
「明日、天気予報は大荒れだって言ってたけど本当かしら」
「ケケケ、そりゃ上等だ」
「もちろんそのつもりでいろいろ準備はしてるけど。ねぇヒル魔くん」
ヒル魔はこちらに視線を向けて言葉のその先を待っているようだった。
「食事中はそのマスクはずすの?」
「あぁ?」
「セナがね、ご飯食べる時もはめたままだったーって言ってたから」
顔を顰めつつ盛大な沈黙をばらまいた後に、ヒル魔くんはやっと口を開いた。
「場合による。普通にはずす時ははずす」
「そ、そうよね」
「まあ糞チビのメシ食う時にまでってのはそれはそれで立派な心がけだがな。
大体テメーのプレゼント渡す時にははずしてたろうが」
「……あ、あれ?」
わたしの誕生日は王城の学園祭の翌日で、
ヒル魔くんからは大好きな雁屋のシュークリームと、
ロケットベアーのストラップをこの部室でもらったんだった。
そう言えば、確かにマスクはその時にはしてなかったように思う。
あの時額にキスされたのを思い出して顔が火照った。





水分を含んだマスクは貼り付いていて、どれくらいの酸素を遮断しているのだろう。
手を止めてヒル魔くんの顔をじっと見ていたら、さすがに向こうから問われた。
「どうした?」
「……どれくらい苦しいのかな、と思って」
「テメーも1回はめてみるか、体験するのが一番だぞ」
ヒル魔くんはそう言いつつ、予備のマスクをひらひらと振っている。
「い、今はいいわっ」
「遠慮はするな」
「してません!」
マスクの下はきっと悪魔の笑みだろう。
立ち上がりヒル魔くんは、わたしの方に近付いてくる。
逃げようとしたのだが、遅かった。
手首を掴まれて、もう何処へも行けなかった。
「疑似体験ならさせてやる」
ヒル魔くんは持っていた予備のマスクを放り投げ、
はめていた自分のマスクもはずして、そう言ったのだ。
「んっ」
唇を突然に塞がれて、それが思ったよりも深い口付けだったことに戸惑った。
苦しい。
息ができない。
ばたばたと暴れるわたしは、
そのまま体ごと壁に押し付けられてまったく動けなくなった。





まるでわたしは溺れかけた金魚。
世界に溶け込んでいる空気があまりにも少なくて、
金魚鉢の隅でもがいている。





「はずさねーと確かにキスもできねぇな」
3秒で言葉を落とし、再びわたしの唇は塞がれた。
もがきつつ泳がせた指をヒル魔くんの掌が包む。
絡められた指にわたしは安堵する。
ねえお願いだから、離さないで。





その指だけがわたしを救うようで。










王城との決戦は、明日だった。















これからも少しずつですが、
シリーズを進めていけたらなと思っています。






2008/8/8 UP


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